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ル・マン優勝車787Bと水素ロータリー、マツダHR-Xの感慨! 第29回・東京モーターショー (1991年) 4/4話 【東京モーターショーに見るカーデザインの軌跡】

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第29回東京モーターショーも4回目、いよいよクライマックスにふさわしいクルマを選ぶときがやってきた。
コンセプトカーでも市販車でもないが、ホールの傍らに地味に展示されていたマツダ787Bというレーシングカーを第1番目にお話したいのである。

最初で最後、念願のル・マン優勝マツダ787Bの真実

夜間のピットでは、ひたすら交換パーツの確認、整備が行なわれていた。これぞヒロシマ魂だった。

自動車レースの歴史に永遠に刻まれる出来事がこの年の6月に起こった。ル・マン24時間耐久レースでロータリーエンジン搭載のこのクルマが総合優勝したのだ。しかも出場した3台とも完走し最後の周回で隊列を組み3台揃ってゴールインしたのであった。

しかしこんな凄い出来事にもかかわらず、この年のマツダは新車ラッシュで宣伝費の多くはそちらに回され、しかもレース活動はマツダスピードという別会社が運営していたこともあり、新聞見開きの全面広告を1回出しただけだった。スポンサーのレナウンが見かねて度々「夢をありがとう」といった広告を何度かしてくださったのが頼もしかった。
当時社員であった私は「やっぱレナウンは良いな」とつぶやきながらヤキモキしたことを今でも思い出すのである。
もしこれがトヨタだったら日本橋から新橋まで凱旋パレードは間違いなかったであろう。

前置きはこれくらいにして、いかに凄い出来事だったかをお話しよう。
有名な1955年の大事故のころからル・マンはジャガーやメルセデス・ベンツが優勝、いつまで待ってもフランス・プジョーが勝てない上に「怪しいエンジン」の日本勢が勢いを増してきた。早いうちに芽を摘んでおこうという主催者の意向が通り、1991年限りでレシプロエンジン車以外は出場出来なくなるという、マツダチームにとっては人種差別みたいな新技術差別の不当な憂き目にあい、これが最後の土壇場だったのである。

こんな凄いプレッシャーを乗り越え、レースの駆け引きに打ち勝ったスタッフの魂は、以前にご紹介したロードスターやAZ-1の設計者が見せた、「何としてもやりとげるんじゃ」のヒロシマ魂と共通しているように思える。
言い忘れたが私はこのレースの現場にいてピットクルーやチームスタッフの、他のチームとは全く異なる仕事ぶりを見届けた。勝てたのは運が1パーセント、99パーセントが神業としか思えない完ぺきな仕事の結果であったと私は今も確信している。

ピット上のプレスルームからの荒川氏が撮影したカット。ボディについたオイルや汚れが苛烈なル・マンのフィールドを語る。

ライブ風に当時の様子をお話する前に、デザインについて触れておこう。
優勝候補であったメルセデス・ベンツやジャガーと比べて787Bのほうが幅が広いように見えるが、他チームはル・マンの長い直線における最高速でのリードを狙い空気抵抗低減のため車幅を狭くしたデザインにしてきたが、マツダはロータリーエンジンの特性からトレッドを広げコーナリング重視の作戦に出たのだ。

しかし当時のグループCカーについて素人だった私は、そんな奥の深いこととは知らずに、「往年のシルバーアローを思わせるM・ベンツは細身でカッコいいなー」と、マツダに冷たかったことを今になって悔やんでいるのだ。

序盤で早々とプジョーがリタイヤし、がっかりした観客の多くが帰ってしまった頃、マツダはいつの間にかじわじわと順位をあげていた。

レースがスタートして12時間が経過した深夜の事であった。他のチームは人影もまばらなのに、マツダのピット奥は違っていた。他のチームと同様に薄暗いにもかかわらず、ボルト&ナットの担当者は隠れるようにピット奥で手元のみをライトで照らし次のメンテナンスに備え、小さなボルト類を一つひとつ目視で点検しブラシ付きのゴム製ブロアで埃を払っていたのだ。もちろん日本で準備した時はX線で調べ厳選したものだけを持ち込んだもので、いまさら点検は無用のはずなのだが、ボルト同士が接触して鉄粉が発生しているかもしれないので、それを最終チェックしているのである。
深夜2時にも関わらず少し離れたタイヤ置き場では、ウォームジャケットに入れる前のタイヤの走行面に強い光を当て、光に透かして10センチ見るのに3秒ほどかけながらブラシでの埃とりを慎重に行っていたのには驚いた。

左の写真がジャガー、右の写真がメルセデスのピット。

ピットエリアに入れる特別のライセンスで前日ジャガーやプジョーチームを見てきたが、そんなことは当時どこもやっていなかった。ただメルセデスチームだけは全員黒のつなぎが威圧的で、無駄の無い洗練された動きをしていて、さすが優勝候補だと感心した。

しかし、夜が明けた最終日の午前7時頃からプレスルームが急にあわただしくなった。順調に順位を上げ深夜のうちに4位につけていたマツダが動いたのだ。
優勝を視野に他チームに先駆け本気モードに入ったのであった。その後一気に順位を上げ2位につけ、その時のピットクルーの掛け声と安全点呼はすさまじかった。独特のトランペットのような甲高いエンジン音を上回る迫力は本当に他チームを圧倒し、当然ながら無駄が無い素早い動きはベンツを完全に超えていた。

燃料タンクも両側にあり、ジャガーの燃料補給や後輪を覆うスパッツの取り付けの遅さを見て、「こりゃあ本当にマツダはいけるかも」と心が躍ったのは午前9時ごろであった。

プレスルームの写真、中央にいるのが荒川氏。右は787B 55号車がシルクカット・ジャガーを周回遅れに。

その後は皆さんもご存知のように、追われるプレッシャーからメルセデスは浮足立ち重大なミスであるオーバーヒートを起こした。一瞬だがトップのクルマはエンジンの過熱で給油後に火に包まれ大きく遅れた。この時のメルセデスチームは30人近い黒つなぎを着たスタッフがうろうろするばかりで、前日の統制が取れた動きがまったく出来ていなかったのだ。

完全にマツダの作戦勝ちであった。まず前例のない部品類の前準備と徹底した品質管理。現代のF1並みを実現したピットクルーの過酷な訓練。そして優勝を確信し、まだ寝ぼけていたメルセデスチームへの「見せるプレッシャー」による早朝攻撃の成功。これらのミッションを、後が無いという重圧にめげず冷静に実行できたのはヒロシマ魂に他ならないと私は思うのである。

よくぞ洗練された形に! 愛おしい我がマツダHR-X誕生秘話

いよいよ、マツダ水素ロータリーHR-Xを語る時が来た。
1991年の2月末、ユーノス・プレッソは、北米でのテストドライブによるデータ収集と商品性の最終確認や現地有力ディーラーへのプレゼンテーション、さらにはヨーロッパへ渡りジュネーブショー展示の立ち合いという忙しい状況にあり、私は3週間ほど出張しなければならなくなった。

ちょうどこの時期にHR-Xのデザイン開発がスタートし、私がデザイン主査兼チーフデザイナーを担当するのが以前から決まっていたのだが、商品本部とボディー設計部からの強い要請があり、後から決まってしまったのである。
エライことになったと思ったが、私もヒロシマ魂に感化され「やるしかなかろう」で対応することにしたのだが、十分な根回しの暇さえなかった。
だが私の留守中、ポップな若手デザイナーを起用しアイデアスケッチからレンダリング(丁寧に描いたデザインアピール画)までを上司の河岡部長が進めていてくれたのであった。
このスピード決着には今も感謝しているのである。

帰国後すぐにクレイモデルに取り掛かったが、HR-Xを設計したのは博士号を持つエリートで構成された先行技術開発グループ。彼らが優先したのはコンセプトカーのデザインよりも、新日鉄などの巨大製鉄所で後日行なわれる実用試験車の耐久性であった。

1990年12月、横浜R&Dにて。HR-Xの技術基盤となった試験車。全てはここから始まった。金髪が荒川氏と同期入社の元ポルシェのチーフデザイナーで愛称ジンジャー。 手前の後ろ姿がオシャレなスーツ男は福田本部長。 荒川氏が撮影したため写っていないのが残念。

そのため短いホイールベースに加え水素吸着合金とバッテリーが入った分厚い床下の上には全高が1500mmは必要と思われるドライビングポジション。そしてリヤには補器類がぎっしり詰まった大きなエンジンルーム、最悪は小径の幅狭タイヤという、およそカッコいいデザインとは無縁のディメンションであった。

製鉄所から出る副産物の水素をふんだんにタダで使わせていただき、実車走行を重ねなければ実用化は不可能なのだ。先行技術開発の方達にすれば当然のことで、デザインサイドはその構造を一切変更せずに美しいボディでカバーしなければならなかったのだ。写真をご覧になればお分かりのように、まるでトロッコのような台車がHR-Xの中身なのである。

レンダリングはかなり低めでカッコよかったが、レイアウトに合わせて行くとどうしても忍者ハットリ君の頭みたいなスタイルになってしまうのであった。その後ハイライトラインを徹底して調整しスリム化を図り、丸さの中に締めのシャープなラインをフロントフェンダーに入れ、大型ヘッドランプの原案を巨大なフロントウィンドウと喧嘩しないよう小さな穴だけのプロジェクターランプに置き換えた。
その結果エクステリアデザインは、何とかマツダデザインとしての合格点にたどり着けたのであった。

しかしインテリアはデザイナーが他のプロジェクトに掛かりきりで、誰もいなかったのである。
シートデザインは、幸いにもユーノス500で大活躍してくれた優秀な中堅デザイナーの協力で目途がついたが、インパネは私がスケッチと断面図を描き、ベテランのモデラーと1対1の一発勝負でクレイモデルを作りFRPモデル化したのであった。

唯一のハード面の変更は、何としても不安定なスタイルが我慢できず、説得して設計要求のキャビン幅を大幅に狭め、正面から見て安定感のある台形スタイルに変更したことである。その為パッセンジャーシートとの隙間は極めて狭くなったが、金魚鉢のように膨らんだドア断面を利用して、サイドエアバッグが付くスペースがあることに気づいた。
ドアの断面が丸く膨らんだデザインのおかげでドライバーとドアトリムの距離が大きく空いて、この距離なら助手席用のサイドエアバッグが取り付けられると思いついたのである。

1991年にはボルボもまだサイドエアバッグは搭載しておらず、提案さえしていなかった。実用新案を出せばよかったのに、と後日設計の方から言われて後悔したが、まさに災い転じて福となすであった。

さて、8月の末にはおおよそ本体が完成し、9月の初旬にはポリカーボネートのグラスキャビンが専門メーカーから納入され取り付けられたときは感激であった。ぴったりと接合部分が一致したのである。サッシュや骨組み、ドアとの合わせが調整され、またABSの削り出しで作られたスイッチ類などの艤装品が取り付くと一気に本物感がアップした。
私の好みで決めてしまった2トーンのボディカラーも予想以上にカッコよかった。

完成したHR-Xを見た福田本部長から「うわ! 凄いカッコしちょるけど面白いねー。綺麗にできたじゃないの!」とお褒めの言葉を頂いたときは本当に嬉しかった。

9月中ごろ茨城県霞ケ浦のほとりにある阿見飛行場での走行シーンのビデオ撮影に立ち会った。

阿見飛行場でプロモーション素材の撮影。
開発スタッフで記念撮影。無事、全てをやり終えた安堵に満ちる。

展示モデル用から実走タイヤに履き替え、様々な調整ののち設計スタッフがエンジンをスタートさせた。温まるまではロータリーエンジン独特のトランペットのような「パーン、パーン」と高回転音でふかしていたが、やがて安定すると驚くほどやさしい音色の低回転でゆるゆると回り続けた。排気管から出るのは水蒸気と純粋な水ということで恐る恐る舐めてみたが、ほんとうにただの水だった。

走り去る後ろ姿はいまいちカッコよくはなかったが、けなげな深海の希少生物のように可愛く見え、頼りなげなプルプルという排気音も相まって妙にいとおしく感じられた。

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